This is it

舞台大好き。映画も大好き。私の見たもの日記のようなものです。

ジーザスに溺れましたぁ。〜JCS韓国バージョン

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日没前のシャーロッテシアター。

あんにょんです。
先週ようやく念願のこちらに行ってきました。

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んふっ。

「JESUS CHRIST SUPER STAR」

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夢の扉を開けば、
JCSの世界へ。

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今回のキャストはこちら。

ジーザス:パク・ウンテ
ユダ:ユン・ヒョンリョル
マリア:イ・ヨンミ
ピラト:キム・テハン

本当は、ユダはハン・チサンssiで見たかったのだけど、
贅沢は言いません。
歌い方はユン・ヒョンリョルssiの方が好きだから・・・。


こちらがヒョンリョルユダのHeaven on Their Mindsです。
オープニングから、すぐにこの歌で始まるんですが、
iphoneでさんざん聴いていた曲なだけに、気持ちはあげあげに(笑)

ヒョンリョルssi、すごくうまいんですが、
残念なことに、ここ役者じゃなくて歌手になっちゃってるんですね。
ミュージカルって、もちろん歌を聴かせるんだけど、
歌は言葉であり心なんですよね。
だから、自分の歌に酔っちゃダメなんです。

ユダの役は、ストーリーテラーであり、
舞台をショーする有能な歌手でもあるので、
歌い上げたい気持ちはよくわかるんだけど、
ここはユダとして演技をして欲しかったんだなぁ。

それに比べ、この歌とビートに合わせて
舞台後方に後ろ姿で登場したウンテジーザス。

痺れました。

後ろ姿のまま、電撃にあたったように、
ビートに痺れるように踊るんですが(身体を動かすとも言う)
それが本当に素晴らしくて。

のちにそれがむちに打たれる動きだって事に気がつくんですが、
とにかくその動きが衝撃的で、目が釘付け。

劇中、ジーザスは「静」そのものなんですが、
その「静」の中の燃え滾る激しさっていうか。

ジーザスって、本当はすごく熱い人なのね。

のっけからいきなりジーザスの激しい心がぶつかってきて、
気がついたら泣いていました。

ぐぁぁん。


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この後、再び登場したジーザスは、
もうその激しさは消えて、終始、「静」を徹します。

民衆の求める声を聞きながら、
その声と神の声のギャップに心を痛める。

どうすれば全ての人を救うことができるのか。
どうすれば、神の声を彼らに理解させることができるのか。

群衆に囲まれながらも、
誰も見ていない瞳。
見えないものを見つめ、
聞こえない声に耳を傾ける。

神との交信だけに心を砕き、
それ以外のものには、心を動かしたりしない。

それは、もう痛いほど切実に、強固に、
心を閉ざし、揺るがない姿。

その姿に、人々はカリスマを感じるのだけど、
それでさらに彼は心を痛める。

ウンテさんのジーザスを見て感じたのは、

ブッタは、修行の中で悟りをひらき、
生きるもの全ての命の尊さと、生きることの素晴らしさを説き、
極楽浄土の世界と、輪廻転生を教えたけれど、

ジーザスは、生まれたときから神の声を聞いたそうだけど、
それは自分が理解した言葉ではないんですよね。

ただ、神の声を聞く。
そしてそれをスピーカーのように伝え広めていくんだけど、
自分の力で得たものではないから、
神の声を理解し、それを説く強さが彼には足りない。

だから、その無力さに心を痛め、
「なぜそうなるのか?」と、常に神に教えを乞い、
折れそうになるのを必死にこらえているんだな。っと言うこと。

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外部から入ってくる声や誘惑に揺らいだら最後だと、
死に神の声だけを聞こうとしている。

人々の祈りの歌が響き、
その歌に交わらない彼の無言の演技が切ないの。
歌の中にあって歌で表現できないジーザスの心。

ナンバーやダイジェストを見ていると、
歌い上げるユダが主人公なんじゃないかと思えたけれど、
その歌に交わらない、静の演技に、
やはり主人公は圧倒的にジーザスなんだと思った。

彼の抑圧された心は、時に叫びとなり、
祈りの歌を打ちやぶる。

「違うっ!なぜわからないんだっ!」

心の苛立。

病に倒れたもの、
怪我をして動けなくなったもの、
闇の中から、救いを求める魂の渦に呑み込まれ、
そこから逃げ出そうとする彼の心。

何もできない。

心が折れそうになり、
彼のために何かしたいと願うマリアの胸に身を預ける瞬間が、
悩める一人の男の姿で、キュンとしてしまいます。

そして、預けてすぐにそこから離れる姿が、
強くもあり弱くもある元祖ツンデレ(笑)で、
またキュンとしてしまうのです。

そこに愛があるんだよね。
決して表に出すことはできないんだけど。



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やっぱりウンテさんの演技が最高にいい。
彼は「ジギル&ハイド」をやってからすごく変わったと思う。
神々しさと人間らしさ、
強さと弱さ、
その2つの間で揺れ動く心の緊張感。

彼の演技はいつも、バイオリンの弦のように、ピンと張りつめていて、
そこから奏でる音=歌に、心を揺さぶられてしまう。

そのくせ、
揺れて崩れそうになる一瞬、
ふっとその緊張を解く時のあの緩みと柔らかな空気に、
心を鷲掴みされてしまう。

一瞬の柔。
ああ・・・罪な演技。

改めて、この作品と浜逆のラブストーリーを見て見たいと思った。
緊張感よりも柔らかさの方に比重を持っていった時、
彼は一体どんな演技をするんだろう?


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さて、ユダ。
欲も悪くも人間らしさの固まりのような男。

人々が「神の子」と彼を崇める中、
彼を一人の人間として見ているのは、
ユダとマリアだけ。

マリアの中には、愛があり、
ユダの中には、ジーザスが押し隠す心がある。

ジーザスとユダは、表裏一体。
裏と表、光と影。

ユダが歌うとき、その後ろでジーザスが佇み、
ジーザスが表に出る時は、その陰にユダが必ず佇んでいる。

お互いがお互いの姿を見て心を痛め、
怒り、悲しみ、そして背を向ける。

私の見たヒョンリョルユダは、
いつも眉間にしわを寄せ、
ジーザスに嫌悪しながらも、どこかで憧れを抱いている。

彼が歌えば歌うほど、
民衆は背を向け、ジーザスは冷たい視線で彼を拒絶する。
(そして私の視線も、彼の向こうのジーザスに釘付け(笑))
ユダはそう言うキャラなんだよ。
からしょうがないと、自分に言い訳。

その拒絶がなぜなのか、彼にはわからないのだけど、
ジーザスにとっては、見たくない自分の姿であり、
これから自分を死に赴かせる存在であることもわかっているからなんだよね。

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「そんな貴重な香油を塗らせているなんて。
金に換えれば一体何人を救えると思っているんだ?」

信者たちに敬われているジーザスに
苦言を差すユダ。

ユダもまた、迷える民衆を救う術を思い悩んでいる一人。
しかし、ユダのそれとジーザスのそれは
似ているようで非なるものなんだよね。

「できるだけたくさんの人を救いたい」
「全ての人を救いたい」

ユダは、与えることが救済だと考えているが、

単に苦しい人が求めているものを与えても、
それを常に、全ての人に与えることはできない。
与えて救われるのは自分の心だけ(自己満足)だと言うことを、
ジーザスは知っている。

一人を救えなくてどうして、万人を救える?

反発するユダの心は、自分も悩んだこと。
だから、ジーザスはその次のことを考えているんだよね。

与えることが救いでなければ、
どうすれば救うことができるのか?

彼にとって人生は試練で、苦行で、
それを乗り越えた向こうに、死とともに幸せと安らぎがあると説いていて、
でも、誰もその世界を知らないから、
彼自身の死によって、それを体現するというのが、
彼の(神の)プランなんじゃないかな?

なぜ、自分が死なねばならないのか。

神にずっと問うても答えはなく、
ゲッセマネの園で、
自問自答するように歌い叫ぶ彼の姿が切ない。

エルサレムの荒涼とした大地は、
彼の心そのもので、
厳しく神々しく、そして虚しい。

孤立した孤独の中で、
死を決意しなければならない重責に、
押しつぶされそうな心。

神の子としての心と、
人間としての心の葛藤の中、
神の子の心を選んだ(しかなかった)後の、荒涼感が悲しい。

ゲッセマネの園」は、ウンテジーザスの骨頂ね。
歌でありながら、独白であり、会話で、心の声。
ミュージカルの歌はやっぱりこうでなければ。


この後、彼は人の心を完全に殺して、
捕まり、磔にされるわけなんですが、
その後の頑固さ(失礼)というか、揺るぎなさが半端なくて、
どうあっても死へ向かうようにさせるんですよね。
ユダに裏切らせ、ヘロデ王に折れず、
ピラド総督に磔を命じさせる。
みんな他力ですよね。

ユダは、自分がそうさせるためのプログラムの駒だったと気がつき、
「裏切り者として死ねばいいんだな。
いいだろう、死んでやる。」
と行って首を吊るし、

ピラドなんて、どう見てもジーザスに惹かれていて、
自分の手で殺したくないから、
むち打ちの刑で、彼を改心させようとするんだけど、
全く耳も貸さず、黙って鞭に打たれ、
その瞳で「磔にしろ」と訴えるんですよね。

ピラドは、民衆の声と言うよりも、彼の眼力に負けたって感じで、
「いいだろう!もう知らない!」と叫んで磔を命ずるんですよね。

う〜ん。
ピラド、とても上手かったです。
彼の気持ちがとてもよくわかりました

そうして、誰もがジーザスの仕打ちに恨み、涙するんですよ(苦笑)

ジーザス、目的のためには厭わない
案外悪い奴。


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最後の天国(に行ったのか?)のユダが、歌い上げる
「JESUS CHRIST SUPER STAR」は、
そう言う彼をやや皮肉った歌なのね。

それがこちら。

そうして磔にされて死に行くジーザスが、
絶命する最後に叫ぶマリアの名前に、
最後の最後に人間としての彼が表されていて、号泣。

これ、キリスト教徒によるキリスト教徒のための、
キリスト讃歌なのかと思っていたけれど、違うのね。
神の子キリストの最後の7日間ではなく、
人間キリストの最後の7日間なんだ〜。と思ったら、
よけいに胸が熱くなりました。

予習として映画版を見ていったんだけど、
映画版は????ばかりで、
正直、この演目を見るのか・・・とブルーになっていたんだけど、
これを見て、映画の????が全て理解できました。

演出も構成も、とてもいい。
それに俳優たちの演技と歌が相まって、
素晴らしい作品だと思いました。

ああ、なんで1回しかチケットとってなかったんだぁ〜〜〜〜!


10分程度ですが、ダイジェストありましたので貼っておきます。
再演、またウンテさんで見たいです。