This is it

舞台大好き。映画も大好き。私の見たもの日記のようなものです。

「ドリアングレイ」物語から見たringhun的解釈

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自分の覚書として。
「ドリアングレイ」を物語として感じたことを書き留めておきます。


物語の時間軸。
1884年 バジル、ヘンリーは26歳、ドリアンは18歳、シビルは16歳。

若い。1幕は、ドリアンはぴちぴちだし、
バジルもヘンリーも、人間として一番勢いのあった時代だわね。

若さがキラキラ光る人生の夏の日。
自分の理想に自信がみなぎり、夢を追い求めるバジルとヘンリー。
種類は違えど、どちらも全身から艶が溢れている。

真っ白な衣装のドリアンは、無垢な生まれたばかりの魂。
最初に見たものを親とみなすヒナのようだ。
社交界にデビューして出会ってしまった2つの強烈な刺激に心を奪われてしまう。

自分(ドリアン)に陶酔するバジルの芸術。
危険な光を放つヘンリーの知性。
その甘い痺れに、自分にの価値に目覚めるドリアン。

バジルとヘンリーは理性で現実と本能(欲望)で理想であり、
母と父でもあるんだな。
で、ドリアンは人間の象徴なんだな。

「2つの本質」の真ん中で両極の本質に翻弄される人間。
でもその実、「2つの本質」も迷いを抱えている。

そして、その迷いがゆえに躊躇して踏み出せない「理性」=バジル。
一方、迷いながらも自分を奮い立たせて前に進む「本能(欲望)」=ヘンリー。
だから、2つがせめぎあった時どちらが主導権を取るかは、一目瞭然。

「煌めく美しさ」で、巧みな話術でドリアンを取り込むヘンリー。
ヘンリーに掛かれば、皆そうなると知ってながら、
ドリアンをヘンリーに会わせたことを後悔しつつ、
自分の気持ちを絵に込め贈ることしかできないバジルの羽交なさ。
この2曲は2人のキャラがすごく良く出ていて好き。
曲を聴いているだけで、サイドストーリーまで妄想できます(笑)


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最初はバジルが、卵から孵った雛を大事に手で覆うように守っていたのに、
徐々にヘンリーの存在が強くなり、
1幕最後の♫「against nature」で、
バジルとヘンリーのドリアンに対する立場が逆転する。

黒から白いスーツに着替えたヘンリーが壇上に上がり、光を浴びる。
それがとても力強くて、雄々しい。
舞台で暴走するように踊るドリアンを上から操るように手を上げて、
ニヤリと笑うんですよね。
そのときのヘンリーの表情がものすごく怖い。魔の表情。
彼はあの時、全てを手中に収めたと思っていたんよね。
でも、本当は2人のその迷いの隙をついて「奇跡」が落とされたことで、
ドリアン=肖像が暴走するわけで、
ヘンリーとて神の掌の上で転がされているだけなんだよね。
全て神の悪戯。結局人間は、それに踊らされているだけってことなんだよね(涙)

 

そして20年後の2幕は、
いつの間にか自分たちの手から離れて
暴走するドリアンに翻弄される2人の葛藤なんだよね。
ドリアンは舞台の真ん中で、踊り狂う人形。自分で止めることはできない。

ジュンスによるジュンスのための作品だ」と言われることが多いけれど、
私はこの作品のメッセージ的度合いは、
ヘンリーとバジルの方がドリアンより大きいと思いました。

この作品、本当に深いのよ。

 
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ヘンリーとバジルが父と母だと思ったのは、ドリアンの態度から。

最初に彼を見出したのはバジルで、彼をミューズ(男だけど)と崇め、
全てを包み込むような愛に全てが許されると、
駄々っ子のようにドリアンは彼に甘えている。

ヘンリーと最初に会ったときや、何かしようとする時、
必ずまずバジルの顔を見るドリアン。
ドリアンがやることに口を出したり止めたりするバジルに、
わざと反抗したりする姿は、
小さい子どもが母親にみせるそれとそっくりなんだよね。

 
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一方、ヘンリーに見せた表情は、
好奇心に満ち、崇拝する父が何を教えてくれるのか待っている少年だ。
ヘンリーの前では忠実で「いい子」に変わる。
お尻にぶんぶん振っている尻尾が見えるようで、微笑ましくて笑えるんだよね。
ヘンリーがそれを横目で見て薄笑いをするところはかなりの萌えポイントで(笑)

舞台ではあまり見られないけど、内心それに嫉妬していたバジルは、
まるで、世話をしているのは自分(バジル)なのに、
楽しいことをチラつかせる父親(ヘンリー)に子ども(ドリアン)はべったりで、
それに嫉妬してしまう妻の図(爆)

このへんの部分がもう少し描かれていたら面白かったのにな。



それだけなら微笑ましかったんだけど、
綺麗を求めながらも、きれいごとだけでは済まされなかった時代。

 物語の時代は1884年~1904年。

日本では幕末から明治あたりで、
世界的には産業革命の時代。
イギリスはその台頭だったんですよね。

産業革命により、世界の成り立ちが大きく変わり、
華やかなだけで生産性のない貴族社会は、時代に取り残されつつあったわけで、
その社交界の最後の寵児だったヘンリーは、
彼は誰よりも貴族と言う自分の存在が滅び往くものだと知っていたんですね。

耽美主義とは、「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く」こと。
つまり、華やかな貴族社会の追求とも言える思想で、
それって、滅びゆく自分の未来から目を背けた
ヘンリーの現在逃避でもあると思うんです。
自分の主張する主義は幻だと知っていて、ドリアンにそれを求めてる。

1幕後半で、ドリアンがシビルを死なせた時、
都合のいいように解釈して聞かせ、ドリアンの「良心」の目を塞いだヘンリーは、
自分の中でチラつく「良心」をも、押し込んだように見えた。

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ー自分では避けながら、ドリアンを快楽主義に導くというのか?

自分の心を見透かしたかのようなバジルのセリフに、言葉を詰まらせるヘンリー。
「疑念」ーそれがヘンリーの迷い。


バジルの迷いは「愛(欲望)」。宗教的道徳的に、同性愛が禁じられていた時代、
彼の想いは絵の中に込めることしかできなかった。
想いを絵に注ぎ、彼に贈ることで密やかに愛を全うしようとした理想主義者は、
自分の中で次々と溢れ出る愛(欲望)を押さえつけていたのに、
2幕前半、事もあろうに本人にそれを知られてしまう。

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ー誘惑をなくす唯一の方法は、その誘惑に屈することだそうだよ。バジル。

甘く残酷に囁くドリアンに、
それが、歪んだ誘惑だと知りながらも、
差し伸べられた手を抗うことができずに、信念を捨てて掴んでしまう。

理性とは本能の前では脆く儚い物だなと、痛感した。

ドリアンとバジルの立場が逆転する瞬間。
美しい顔を毒々しい笑顔で理性をひねり倒すその禍々しいまでのドリアン。
ジュンスの演技の真骨頂だなと思った。本当に秀逸。

 でも、実際、ドリアンも彼を愛していたと思う。
だって、彼だけがいつでも100%自分を美しいと
言ってくれることを知っているから。
そして、その言葉が彼の全てだから。

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バジルは無条件で自分を愛してくれる。
ヘンリーは迷いなく自分を理想に導いてくれる。
そう信じて、ドリアンは彼らに依存し甘えていた。

だけど、バジルは、ドリアンの誘惑に負けて、信念を捨ててしまった罪悪感に、
ヘンリーは、目を背け続けた「現実」を認めることの重さに耐えられず、
どちらも最後は彼から逃げちゃう所が悲劇で、
取り残されたドリアンはもう、
自分の命を絶つことでしか舞台を降りることはできないよね。

孤独に死んでいくドリアンは、本当にかわいそうだけど、
ここは原作と違った最後で、悲劇だけど原作よりもずっと美しいと思った。

原作は、最後まで自分の罪を受け入れられずに、肖像画を破いて殺そうとして、
結局自分も死んでしまうんだもの。
耽美小説なのに、最後が美しくないと思っていたから、
舞台の『ドリアングレイ』の方が耽美を追求してるなと思った。




ーたとえ人間が世界の全てを手にいれたとしても、
   魂がなければなんの意味があるだろうか?ーマルコによる福音書8章36節

バジルの最期の言葉が、この作品の投げかけたテーマの答えの全てだと思う。
ヘンリーとドリアンが追い求めた「本当の美しさ」の答え。
「耽美」は愚かな幻だと。
本当に大切なもの、美とは、彼らが目を背けたものの中にあると、
耽美を追求しながらも、耽美主義を否定している所がまた面白かった。

そして、自信の塊のようなヘンリーが、心を折って去って行き、
不安げだったバジルが自分の信念を曲げることなく、ドリアンの刃に倒れ、
美しく誰からも愛されていたドリアンが、自分の醜さの前に孤独な死を迎える。

全ての人物が全て逆転の結末を迎え、テーマである耽美を否定する。
全てに法則性をもたせて、
光と闇、そしてそれらは融合しているという表現が哀しくも美しい。

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最後、ヘンリーはドリアンを置いて退場したけど、あのあと彼はどうしただろうか。
ラストはその時々で全く違うらしいけれど、
私が見たときは、自分の信念の間違いに失望して去って行った。
あの去り方だと、彼も生きてはいないのかな?

ドリアンを導いていたようでいて、
実は最初から最後まで自分のことしか見えていなかったヘンリーは、
本当にひどいやつなんだよなぁ。
だけど、ウンテヘンリーなら許してしまうんだよなぁ。

信念をふまえた夢の実現と失敗。
なんだか「ジギルとハイド」を思い出してしまいました。

そう言えば、
ー「まや?(麻薬)」
2幕冒頭で、ヘンリーがドリアンの所業の報告を聞いている時のセリフに、
ウンハイドを思い出してキュンとしてしまったのは、私だけなのかな?
全然どうでもいい話なんですけどね。

ラストのカーテンコールは、死をもって贖罪を遂げたドリアンへの
赦しの歌だったのか?
それとも死をもって赦されたかったドリアンの心の中だったのか?


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夢現つのように短かった私たちの散策は終わって、
   いつも暑かった夏は過ぎ去ったよ。

カーテンコールの歌に、暑かった夏の物語を懐かしみ目を細める。
紅葉の街路樹の中、劇場をあとにした私だったのでした。


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